朝鮮人慰霊碑問題

朝鮮人慰霊碑問題

目 次

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① 朝鮮人炭坑夫慰霊碑問題について
② 歴史回廊問題について
③ 飯塚市役所との行政交渉(話し合い)の動画

朝鮮人炭坑夫慰霊碑問題

飯塚市の問題だけではない朝鮮人炭坑夫慰霊碑問題


上の▷を押すと下記の文章の読み上げ音声が流れます。

 飯塚市には「高齢者の介護問題」、「巨額な生活保護費問題」という大きな問題のほかに「朝鮮人炭坑夫慰霊碑(追悼碑)問題」という重大な問題も存在します。
  この問題は、戦前・戦中に筑豊地区の炭鉱で働き、惜しくも事故や病気で亡くなった朝鮮人炭坑夫の遺骨を収集して納め、供養するための「納骨堂」と、その追悼文を刻んだ「石碑」を平成12年(2000年)12月に飯塚霊園の「国際交流広場」に設置したことから始まります。そしてこの問題の要因は、石碑に刻まれた追悼文の内容が実際の歴史事実とは異なる上に、日本国政府の見解とも相違しており、それが飯塚市と日本国の名誉を貶(おとし)めている状態になっているという点です。
  ところが、設置から既に20年以上の年月が経過したにもかかわらず、石碑の追悼文は現在も修正が行われることなく、放置されたままなのです。 国際交流広場は飯塚市が所有する市有地です。ここに歴史的に間違った内容を記した石碑の設置を許しているということは、飯塚市がその間違った歴史内容を公式に認めているということになります。
  歴史的な問題は特定の地域のみにとどまらず、その国全体の問題ですから、このままこの慰霊碑問題を放置し続けるならば、それは飯塚市民が日本国民全体に迷惑をかけ続けていることになります。今回は、この問題の解決に向けて、市民の皆様と共に考えたいと思います。
石碑の正式呼称は「追悼碑」ですが、「慰霊碑」という呼称が一般的に使われていますので「慰霊碑問題」としています。

国際交流広場の現状(写真をクリックすると拡大されます)

納骨堂とその後方の壁面に歴史回廊

日本語と朝鮮語で追悼文が刻まれている慰霊碑(追悼碑)

間違った歴史が多く記されている「歴史回廊」のパネル

納骨堂の後方壁面に設置された「歴史回廊」のパネル

正しい「日本と朝鮮半島の歴史」を知りましょう!

 まず、正しい歴史を知ることが、この慰霊碑問題を解決するための一歩になります。
尚、印がついた項目には、その欄の下に簡単な解説があります。

1392年 高麗の武将の李成桂が高麗王を廃して即位し、翌1393年に国名を「朝鮮国」(李氏朝鮮)とする。(この当時、日本は室町時代中期)
1401年 朝鮮国三代目の王「太宗」が「明(中国)」から朝鮮国王と正式に認められる。(朝鮮国が明の属国となる)
1644年 「明」が滅び、その後に「清」が中国を統治する。(日本は江戸時代)
1868年 日本で明治維新が起こり、明治時代が始まる。
1894年 日本(大日本帝国)と清との間で「日清戦争」が起きる。
1895年 日清戦争に日本が勝利して「下関条約」が結ばれ、日本が朝鮮国を清から独立させる。(※1
※1 日本と清の間に結ばれた下関条約は、朝鮮国の独立と朝鮮国から清に対する貢(みつぎ)・献上・典礼等の廃止。清から遼東(りょうとう)半島、台湾、澎湖(ほうこ)諸島などを日本に与える。清が賠償金2億テール (現在の1兆2千億円に相当)を日本に支払うなどの内容であった。
1897年 朝鮮国が国名を「大韓帝国」(略称:韓国)に改称する。
1904年 ・日本とロシアの間で日露戦争が起きる。 
・日本と大韓帝国が日韓議定書及び第一次日韓協約を結ぶ。(※2
1905年 ・日本の勝利で日露戦争が終結。 
・日本は大韓帝国と第二次日韓協約を結び、大韓帝国を事実上の日本の保護国にして、朝鮮半島に「韓国統監府」を置く。(※2
※2 日本は満州・朝鮮へと南下を目指すロシアとの戦争が始まると、軍事的な補給線の確保のために大韓帝国の独立保障や防衛義務を条件にして日韓議定書や日韓協約を結んだ。その後、日露戦争に勝利した日本は大韓帝国の内政に関与できる「韓国統監府」を朝鮮半島に置いた。
1909年 大韓帝国の政治結社である「一進会」が皇帝の純宗に対して「韓日合邦(がっぽう)建議書」を提出。(※3
※3 一進会の会長だった李容九は、大韓帝国と日本が協力し合うことで欧米列強に対抗できると考え、大韓帝国と日本が一つの国となる「合邦(がっぽう)」を主張して、大韓帝国皇帝の純宗や総理大臣の李完用、日本の曾禰荒助(そねあらすけ)韓国統監などに「韓日合邦建議書」を提出した。
1910年 ・明治43年8月に朝鮮半島の漢城(ソウル)で、日本の寺内正毅(韓国統監)と李完用(大韓帝国の総理大臣)が調印して日韓併合条約が締結され、日本と大韓帝国が併合(へいごう)した。(※4) 
・日本は「韓国統監府」を廃止して 「朝鮮総督府」を置く。(※5
※4 併合とは、合わせて一つにまとめる事、合併(がっぺい)という意味であり、日韓併合は大日本帝国と大韓帝国の合意によって行われたものです。ですので、一方的に日本が朝鮮半島を植民地化したという説は明らかな間違いであり、日韓両国の合意による併合が歴史的に正しい事実です。
※5 朝鮮総督府は朝鮮半島での軍事・内政の権限を持つ省庁であり、朝鮮人の職員も多く雇用されていた。日本は朝鮮半島の経済水準を上げるために、この朝鮮総督府を通して多額の日本の国家予算を投資し、鉄道・道路・上下水道・電気・病院・学校・工場などのインフラ整備を行った。
1939年 日本国内と朝鮮半島に「国民徴用令」が公布されるが、朝鮮半島は1944年9月まで実施が免除された。(※6
※6 国民徴用令は天皇が直接発した法令の一つで、日本の成人男性が徴兵されて労働力不足が発生したために、それを学生・成人女性・高齢者などで補うための法律。給与等の支払い規定もあり、日本国内では昭和14年(1939年)7月から施行され、数百万人の日本人が協力しました。朝鮮半島では昭和19年(1944年)9月から朝鮮人の成人男性を対象に施行された。
1941年 12月8日に日本が英米に宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦。
1944年 9月から朝鮮半島でも「国民徴用令」と「徴兵制」が始まる。(※7
※7 朝鮮半島での徴用は昭和20年(1945年)8月の終戦まで実施されたが、米国の潜水艦による攻撃によって、朝鮮半島との連絡船の往来が困難になったために昭和20年3月までの実質7ヶ月間で終了した。また、朝鮮半島での徴兵制は9月から始まったが、訓練期間中に終戦を迎えたために、徴兵された朝鮮人兵士の実戦への投入は無かった
1945年 日本が敗戦した事により朝鮮半島の実効支配を失い、朝鮮半島は米国とソ連による軍政に移行する。
1948年 朝鮮半島で大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が成立する。

慰霊碑の問題点

慰霊碑の追悼文に誤った歴史が記されている

 上記の「正しい歴史」と慰霊碑にある追悼文の内容を比べた場合、明らかな相違があり、 追悼文が間違っていることが分かります。(下の写真をクリックすると拡大されます)

 慰霊碑には、日本語と朝鮮語で追悼文が併記されています。 下の日本語による追悼文の「赤い文字」並びに「赤い下線」が問題とされている箇所です。 これらについては下に解説をしています。

解説の項目 解説内容
植民地政策
植民地支配
 植民地政策や植民地支配という言葉は、強い民族や国家が弱い民族や国家を征服して、その地域の富や資源や労働力を一方的に奪い取るという意味です。ところが日韓併合は大韓帝国側からの提案であり、逆に日本の国家予算を投資して鉄道・発電所・病院・学校などの建設を行い、遅れていた朝鮮半島のインフラを整備しました。 そしてそれらを朝鮮人も利用していたという事実から「植民地政策」や「植民地支配」という言葉が適切でないことは明らかです。
強制連行  強制連行については、令和3年4月27日に当時の菅義偉首相が『衆議院議員  馬場伸幸君 提出 「強制連行」「強制労働」という表現に関する質問に対する答弁書』を衆議院議長宛に送付して、『朝鮮半島から内地に移入した人々の移入の経緯は様々であり、これらの人々について、「強制連行された」若しくは「強制的に連行された」又は「連行された」と一括りに表現することは、適切ではないと考えている。また、国民徴用令により徴用された朝鮮半島からの労働者の移入については、これらの法令により実施されたものであることが明確になるよう、「強制連行」又は「連行」ではなく「徴用」を用いることが適切であると考えている。』と日本国政府としての見解を表明しています。 
15万人にも上る朝鮮人  15万人にも上る朝鮮人が炭鉱で過酷な労働を強いられについては、15万人という数の根拠は示されていません。 また、上の欄にあるように「強制連行」ではなく国民の義務としての「徴用」です。 国民徴用令が朝鮮半島に適用されるまでの戦前・戦中にも朝鮮人の炭坑夫は筑豊地区の炭鉱にいましたが、これは企業や役所などによる募集に自らの意思で応じた人々です。炭鉱での労働は確かに危険であり過酷ではありましたが、日本人の女性も同様に労働していました。 当然、日本人と同様に朝鮮人にも給与は支払われ、危険で過酷なために給与水準は当時の大学卒初任給の2倍以上だったという記録もあります。
筑豊の発展と日本の近代化  筑豊の発展と日本の近代化は・・・・の赤い下線の部分については、 筑豊の発展と日本の近代化は、外国人労働者によるものではなく、日本国民の努力と勤勉さによって日本人自身で達成されたものであり、この文章は日本国並びに日本国民に対する侮辱であると言えます。
各自治体の協力によって  各自治体の協力によってについては、 飯塚市役所職員の労働組合や筑豊地区の自治体の職員などが、納骨堂や慰霊碑の建立費用に協力しています。
歴史的事実をあらためて認識し  歴史的事実をあらためて認識し・・・・の赤い下線の 部分については、そもそも追悼文に記載されている「歴史的事実」が間違っているか、正しいと証明されていない状態であるために、それをそのまま歴史的事実と認識することは誤りです。
強制連行犠牲者  強制連行犠牲者については、上の「強制連行」の欄にあるように、強制連行ではなく、国民の義務としての「徴用」であるために強制連行による犠牲者は存在していません。

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歴史回廊の問題点

【歴史回廊に設置されたパネルの様子】

(下の写真をクリックすると拡大します)

 

歴史回廊のパネルにも誤った歴史が記されている

 国際交流広場の壁面に設置された歴史回廊の中にも「正しい歴史」と比較すると明らかに間違った内容や疑問を持つ内容のパネルが存在します。ここで紹介している「問題のあるパネル」は一例です。この他にも内容に問題のあるパネルはいくつも存在します。

問題のあるパネル1


 上の人物写真には「筑豊の炭鉱で働く朝鮮人労働者」 韓国 『独立記念館』 提供という解説がついています。ところがこの写真は庄田明 氏(故人)が、 終戦後の昭和30年代後半に筑豊炭田で撮影したもので、戦時中に徴用された朝鮮人労働者ではなく、日本人であり無関係だと判明しています。よって、この写真に付けられている解説は「筑豊の炭鉱で働く日本人労働者」と修正されるかこの写真パネル自体を撤去するべきです

問題のあるパネル2


 上の写真パネルの冒頭にある「500近い大小の炭鉱」の数については、当時の大阪職業紹介事務局が作成した『筑豊炭山分布図』等にある152の炭鉱しか現在のところ確認できていません。また、仮に炭鉱数が500であった場合でも15万人÷500で、一つの炭鉱に平均して約300人の強制労働者が居たことになり、その人々を収容する施設が必要となります。
 その後に「強制連行されてきた朝鮮人や中国人、連合軍の捕虜など約15 万人が強制労働させられていました。」と記載されていますが、これによるとこの筑豊地区に現在の飯塚市の人口約13万人を超える外国人が強制的に連行されて来て、炭鉱で過酷な強制労働をさせられていたことになります。もしそうならば、筑豊地区にあったという500近い炭鉱ごとに、300人ほどの人々を住まわせ、逃げないように監視するための強制収容所を建てる必要がありますが、市民の皆様はそのような跡地や記録をご存じでしょうか?  
 尚、当時は日本の企業の募集に応じるか、「徴用」によって日本に来た朝鮮人ばかりであり、日本人と同様に会社が用意した寮や宿舎などに住んでいたという記録が残っています。 勿論、給料もきちんと支払われていました。

問題のあるパネル3

 
 上の写真は、前述した「問題のあるパネル2」の中にある『下段右:「田川郡添田町にある朝鮮人坑夫の無縁墓地」の様子を写した写真パネルです。これについては「古い時代から続いた地元の日本人墓地の片隅に37個のボタ石が整然と並べられた目印だけの墓地」との説明が付けられています(墓地名:日向墓地)。
 これに「問題のあるパネル2」にある「下段左」の内容を含めると、写真のボタ石の下に強制連行されて過酷な労働の末に亡くなった朝鮮人坑夫の遺骨が埋められているということのようです。
 しかし、これには矛盾があり、そもそも納骨堂を建立した目的は「各地に散在している遺骨を収集して追悼しよう」というものでした。ところが20年以上たった現在も、この墓地の朝鮮人坑夫達の遺骨は収集されずに埋められたままの状態です。
 本当に遺骨があるのならば、納骨堂を建立した後に最優先で収集し追悼するべきだと思いますが、なぜそのままなのでしょうか?

飯塚市の不思議な対応

 私は令和4年5月に飯塚市役所で担当者の方と話し合い、市が予算を取って警察の立ち会いの下に墓地での遺骨の調査・収集を行うべきと申し入れをしましたが、市からは「その考えはない」との驚くべき回答でした。
 通常の判断からすれば、朝鮮半島から日本へ強制連行され、強制労働の末に亡くなって、ボタ石を墓標にして墓地の片隅にうち捨てられているとすれば、これは重大な人権蹂躙(じゅうりん)であり、国際的な人道問題です
 その点から言っても、この件については積極的に調査を行い、遺骨が埋まっていれば収集して納骨堂へ納骨し、供養追悼するべきであり、もし遺骨の身元が判明するならば、遺族のもとへ帰してさし上げるべきです
 私には、片峯市長並びに市役所の本件担当職員が主張された「忠隈の墓地及び日向墓地の遺骨を調査・収集する考えはない」という回答は適切とは思えません。市民の皆様はこの件について、どのようなお考えでしょうか?

これまでの経過とこれからの課題

これまでの経過と解決しない原因

 飯塚霊園の国際交流広場に「慰霊碑(追悼碑)」と「納骨堂」が設置され、その2年後に「歴史回廊」が設置されてから既に20年の年月が経過しています。この間には、佐谷正幸氏をはじめとする市民や団体が幾度も市長や市議会、市役所へ苦情や改善の申し入れなどを行い、慰霊碑の撤去や碑文の修正を求めてきましたが一向に進展がありません。
 私達「飯塚市政を糺す会(早乙女会)」も過去に市長や市議会議員へ質問書や要望書を提出し、市役所の担当者とも何度も直接交渉を行ってきました。この経験から、この慰霊碑問題が進展しない理由を市民の皆様へお伝えしたいと思います。
 この問題については、過去に何度か市役所(国際交流広場のあり方等検討委員会)と慰霊碑や歴史回廊などを管理する在日朝鮮韓国人の団体との間で碑文の修正のための協議が行われましたが、

 というような交渉内容で、もう何年も停滞しています。
 これらの交渉で在日朝鮮韓国人の団体が主張している「加筆なら良い」とは、あくまでも自分達に都合の良い文章の加筆であり、「碑文の文章はそのままで、それを補強する文章の追加は認めるが、碑文の内容を否定するものは認めない」というものであると、これまでの経緯や対応などから予想されます。
 また市側も私達「飯塚市政を糺す会(早乙女会)」が「慰霊碑と歴史回廊の横に正しい歴史を記した日本語と朝鮮語の案内板を設置させてください」という要求に対して「在日朝鮮韓国人の団体側が要求している英語の案内板設置を止めているので許可できません」という道理に合わない理由で拒否しています。

問題解決への提案と要求


 この慰霊碑並びに歴史回廊の問題は飯塚市及び飯塚市民だけではなく日本国全体の問題であり、国際的にも重大な人道問題です。私達「飯塚市政を糺す会」は、今後もこの問題の解決に向けた取り組みをつづけます。

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飯塚市との行政交渉の動画

 令和4年(2022年)5月9日に朝鮮人炭坑夫慰霊碑問題について飯塚市役所の「国際交流広場のあり方等検討委員会」と我々「飯塚市政を糺す会(早乙女会)」との話し合いの様子を撮影した動画です。過去に、このような話し合いを何度も行いましたが、担当の職員が数年ごとに異動をするために、まったく進展しない状況です。
 この問題の解決について、片峯市長並びに担当部署のやる気の無さ朝鮮人炭坑夫慰霊碑問題のこれまで経過などが分かる内容となっています。飯塚市民の皆様に、是非とも視聴していただきたい動画です。

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